5.14.2011

アリストテレス(清水書院)

携帯電話を客先に忘れてしまった。携帯電話がないと非常に不便だ。でも、休みの時くらい、たまには打ち込むべきことに打ち込んでもよいはずだ。

現在、引越しに向けて部屋を整理中である。大学時代に比べ、引っ越すたびに蔵書が減っている。今回、アリストテレスの本が仕分けの対象となっている。
アリストテレスは大学時代に唯一、きちんとかじった哲学者だ。今年30という節目の年であるし、人生についていろいろ考えなければいけない時期でもある。
幸福には、いろいろな形があると思われるが、それなりの地位・収入を得ることが、最大の幸福を達成しうるというのが、アリストテレスの考えである。お金がないと、本を買えなかったり、友人に会いにいけなかったり、旅行に行くこともできないので、その考えは間違っていないと思う。

「アリストテレス(堀田彰著、清水書院)」の153、154ページより、アリストテレスの政治と倫理の考え方を抜き出してみる。

かれは、共同体は個人の総体で、具体的に存在しているのは個人である、という立場をとる。そしてそのいきつくところ、個人の幸福でないような幸福は現実には存在しておらず、概念としてだけ存在しているのであり、したがって個人を犠牲にして獲得されるような共同体の善などはありえない、と考えている。
すべての存在者は自己の完成をめざしている。人間はもともと社会的な動物であるから、人間の目的は社会においてのみ実現されうる。人間は家族・村落という小集団において、それぞれに見合った目的を実現するのであり、ポリスという完全な集団においては完全にその目的を実現するのである。しかも、ポリスに階層があるならば、個人の実現しうる目的の程度はそれにも依存するに違いない。かれはこのように考えている。これからすると、最も高貴な人々だけが最大の幸福を達成しうる、ということになり、きわめて貴族的な色彩をおびてこよう。逆に言えば、奴隷にとっては「物言う道具」であることが最上のことであることになる。
今日われわれはこの論を聞いても驚きはしない。国家が実現しようとする理想や目的が個人のかかげるそれと一致することはまれである。
かれは言っている。「よき人間であるということと、特定の国家のよき国民であるということとは、必ずしも同じではないかもしれない」と。もし両者が一致しているとするならば、それは国家が最良の立法をもっている場合だけである。卓越した両親のもとでだけ卓越した子供ができるように、卓越した法のもとでだけ卓越した市民が生まれるのである。国家でのりっぱな法律・風俗・習慣こそ、その教育的作用によってりっぱな性格をつくりだすのであり、りっぱな性格を所有することこそ幸福な生活を送るための行為をなす前提条件なのである。かれの考え方はこのようであった。