5.08.2011

坂の上の雲(一)(二)(三) 文春文庫

中国出身の男の子(高校1年生)に日本語(漢字)を教えるボランティアをさっきまでしていた。中学2年の漢字まで終わったところだ。日本出身の私でも、説明に困るような日本語が結構あるわけで、言葉の難しさを痛感している。
突然、彼が日本の近代史を教えてくれと、言うので、中学の歴史の教科書をもってきて一通り説明してあげた。すると、中国で教わったことと違うと言う。私は教科書に沿って、帝国主義という世界情勢を意識して、欧米列強との関係をからめつつ、日本がどのようにして中国に侵略するにいたったかを説明した。確かに日本は中国に対して、ひどいことをしたけれども、日本が一方的に非難されるのはどうかな、と疑問を投げかけておいた。

さて、毎年年末に司馬遼太郎氏原作のドラマ「坂の上の雲」が放映されているのをきっかけに、ついに私も司馬氏の作品を読むことにした。文庫本は全部で8巻あるが、2年間でまだ3巻までしか読めていない。いかに、私が作品にのめり込んでいないかが分かる。ただ、司馬史観と呼ばれる歴史解釈をしている部分は興味深く、3巻までで鋭いな、面白いなと思った文章を紹介してみる。


まずは2巻の29ページから33ページにかけての引用から。
ヨーロッパの興隆というのは白人の人種的優越にあるというよりも、一ツ大陸によく似た能力水準の民族がひしめき、それぞれが国家をつくり、互いに影響しあい、模倣しあい、戦いあい、混血しあい、それらのひしめきの結果、地球上の他の域にすむ人種をついに力のうえで圧倒してしまったということであろう。
(中略)
「明治日本」というのは、考えてみれば漫画として理解したほうが早い。
すくなくとも、列強はそうみた。ほんの二十余年前まで腰に大小をはさみ、東海道を二本のすねで歩き、世界じゅうどの国にもないまげと独特の民族衣装を身につけていたこの国民が、いまはまがりなりにも、西洋式の国会をもち、ドイツ式の陸軍とイギリス式の海軍をもっている。
「猿まね」
と、西洋人はわらった。
模倣を猿というならば、相互模倣によって発達したヨーロッパ各国民こそ老舗のふるい猿であるにちがいなかったが、しかし猿仲間でも新店の猿はわらいものになるのであろう。
自分こそ猿でなく、世界の中華であるとおもっている清国は清国で、日本人の欧化をけいべつした。もっとも日本人をけいべつしたのは、大清帝国の文明を信じ、その属邦でありつづけようろする朝鮮であった。
(中略)
しかし、当の日本と日本人だけは、大まじめであった。産業技術と軍事技術は、西洋よりも四百年おくれていた。それを一挙にまねることによって、できれば一挙に身につけ、それによって西洋同様の富国強兵のほまれを得たいとおもった。西洋を真似て西洋の力を身につけねば、中国同様の亡国寸前の状態になるとおもっていた。日本のこのおのれの過去をかなぐりすてたすさまじいばかりの西洋化には、日本帝国の存亡が賭けられていた。
西洋が興隆したそのエネルギー源はなにか、という点では、日本の国権論者はそれが帝国主義と植民地にあるとみた。民権論者も、「自由と民権にある」とは言いつつも多くのものが帝国主義をもあわせて認めた。帝国主義と自由と民権は渾然として西洋諸国の生命の源であると見、当然ながらそれをまねようとした。

続いて384、385ページから。
いわゆる北清事変で連合軍を組織したのは英、独、米、仏、伊、墺の六カ国と、日本とロシアである。日露両軍がもっとも人数が多く、主力をなした。
各地で清国軍や義和団をやぶりつつ八月十四日、ついに北京のかこみをやぶって入城し、各国公使館や居留民をすくうことができた。
キリスト教国の側からいえば、いわば正義の軍隊である。しかし入城後にかれらがやった無差別殺戮と掠奪のすさまじさは、近代史上、類を絶している。
(中略)
ただし、日本軍のみは一兵といえども掠奪をしなかった。
(中略)
日本国は条約改正という難問題をかかえており、「文明国」であることを世界に誇示せねばならず、そのため国際法や国際道義の忠実なまもり手であろうとした。

続いて三巻の68、69ページから。
要するに、日露戦争の原因は、満州と朝鮮である。満州をとったロシアが、やがて朝鮮をとる。
これは、きわめて明白である。日露戦争にもし日本が負けていれば、朝鮮はロシアの所有にあなっていたことは、うたがうべくもない。
むろん負けていれば、日本もとられていたといえるだろうか。
(中略)
英国の外務省は、日露戦争がおこるにあたって、日本がたとえ負けても国までとられてしなうことはないだろうと見ていたふしがある。理由は、島国という地理的環境による。
ただばく大な償金を支払うがために、産業は昭和中期までは停滞したにちがいない。
さらには、北海道一つをとられ、敦賀港と対馬一島はロシア租借地になったにちがいない。

続いて173ページから。
十九世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力をもち、帝国主義国の仲間入りするか、その二通りの道しかなかった。後世の人が幻想して侵さず侵されず、人類の平和のみを国是とする国こそ当時のあるべき姿とし、その幻想国家の架空の基準を当時の国家と国際社会に割り込ませて国家のありかたの正邪をきめるというのは、歴史は粘土細工の粘土にすぎなくなる。世界の段階はすでにそうである。日本は維新によって自立の道を選んでしまった以上、すでにそのときから他国(朝鮮)の迷惑の上においておのれの国の自立をたもたねばならなかった。
日本は、その歴史的段階として朝鮮を固執しなければならない。もしこれをすてれば、朝鮮どころか日本そのものもロシアに併呑されてしまうおそれがある。この時代の国家自立の本質とは、こういうものであった。

最後に286ページからの引用
日本の江戸時代の史学者や庶民が楠木正成や義経を好んだために、その伝統がずっとつづき、昭和時代の軍事指導者までが専門家のくせに素人の好みに憑かれ、日本特有のふしぎな軍事思想をつくりあげ、当人たちもそれを信奉し、ついには対米戦をやってのけたが、日露戦争のことの軍事思想はその後のそれとはまったく違っている。戦いの期間を通じてつねに兵力不足と砲弾不足になやみ悪戦苦闘をかさねたが、それでも概念としては敵と同数もしくはそれ以上であろうとした。海軍の場合は、敵よりも数量と質において凌駕しようとし、げんに凌駕した。