2.01.2012

★★これからの「正義」の話をしよう(早川書房)

『これからの「正義」の話をしよう』(マイケル・サンデル著、鬼澤忍訳)を、やっとつい最近読み終わった。だが、一度読んだだけでは、自分のものになったと思ってはいない。ただ、この本が読み応えがあり、二回目を読むのに値するものであることは間違いないことは分かった。生活において、人は、何が正しく、正しくないか、考えざるを得ない場面に直面することが多々ある。その時、自分が何を考え、またなぜそう考えるのかを見きわめるために、力を与えてくれるのがこの本である。

以下、私が気になった部分の抜粋。


アリストテレスは、寡頭制支持者と民主主義者を批判している。寡頭制支持者が間違っている理由は、政治的コミュニティの存在目的が財産の保護と経済的繁栄の促進だけでけではないからだ。いっぽう民主制支持者が間違っている理由は、政治的コミュニティの存在目的は多数派の思いどおりにさせることではないからだ。両派とも、政治的共同体の至高の目標を見過ごしている。アリストテレスにとって、それは、国民の美徳の涵養だ。善く生きる術を学ぶために政治はある。政治の目的は、共通善について熟慮し、実践的判断力を身につけ、自治に参加し、コミュニティ全体の運命に関心を持てるようにすることだ。
それならば、アリストテレスはなぜ、善良な生活を送るには政治への参加が不可欠だと考えたのだろうか。政治抜きには申し分なく善と徳のある生き方ができないのは、なぜだろうか。答えは人間の本質にある。都市国家に住み、政治に参加すえうころでしか、われわれは人間としての本質を十分に発揮できないのだ。アリストテレスは人間を「政治的共同体をつくる生き物であり、その傾向はミツバチをつくるほかの動物よりも大きい」と見ている。その理由を彼は以下のように述べている。自然は無駄なものをつくらない。ほかの動物とは異なり、人間には言語能力が備わっている。ほかの動物も鳴くことによって快楽や苦痛を表せる。だが、人間に特有の能力である言語は、快楽や苦痛を表現するためだけにあるのではない。何が正義で何が不正かを断じ、正しいことと間違っていることを区別するためにあるのだ。人間はそうしたことを沈黙のうちに把握してから言葉を当てはめるのではない。言語は、それを通してわれわれが善を識別し、熟考するための媒体である。アリストテレスによれば、政治的共同体においてのみ、われわれは人間に特有の言語能力を行使できる。なぜなら、都市国家においてのみ、正義と不正、善良な生活の本質などについて他者と討議できるからだ。つまり、われわれがみずからの本質を十分に発揮するのは、言語能力を行使するときだけであり、そのためには正しいことと間違っていること、善と悪、不義と不正について他者とともに考えなければならないのだ。(250‐255p)


正義と権利についての論争において、われわれは個人的道徳と宗教的信念を排除し、「人格の政治的構想」という立場から論じるべきだ。人格の政治的構想とは、特定の忠誠や愛着や善良な生活の構想に依存しないものである。
なぜわれわれは、道徳的・宗教的信念を正義と権利についての公的言説に持ち込むべきでないのだろうか?なぜ市民としてのアイデンティティを、より広い構想である道徳的人格としてのアイデンティティから切り離さなければならないのか?ロールズによれば、われわれがそうしなければならないのは、現代の世界の主流である善良な生活についての「理性ある多元主義という事実」を尊重するためだ。現代の民主的社会に生きる人びとは、道徳的・宗教的問題について意見が一致しない。そのうえ、そうした不一致は合理的だ。「十分な理性を持つ良心的な人格が、自由に討論したあとでさえも、全員同じ結論に達することは期待できない」
市民としてのアイデンティティを道徳的・宗教的信念から切り離すべしという要求はすなわち、正義と権利についての公的言説に関与する際、リベラルな公共的理性の限界を忠実に守らなければならないことを意味する。政府が特定の善の構想を支持してはいけないだけではない。市民がみずからの道徳的・宗教的信念を正義と権利をめぐる公共の論争に持ち込むのさえ、許されない。なぜなら、もし持ち込んでその主張が通れば、実質的に、特定の道徳的・宗教的協議に基づく法を同胞に押し付けることになるからだ。
われわれの政治的主張が公共的理性の求める条件を見たし、道徳的・宗教的見解にまったく依存しない適切なものであることを確かめるには、どうすればよいだろうか?ロールズは斬新な試験を提案する。「公共的理性に従っているかどうかを確かめるには、こんな質問をすればいい。『自分の主張が最高裁判事の意見として提示されたら、どう感じるだろうか?』」。ロールズの説明によれば、これは自分の主張がリベラルな公共的理性が求める意味で中立かどうかを確かめる一つの方法だ。「もちろん、判事は一般に、みずからの個人的道徳や、道徳的理想と美徳を引き合いに出してはいけない。それらを無関係なものと見なくてはいけない。同様に、判事は、自分や他人の宗教的・哲学的見解も引き合いに出してはいけない」。公共の論争に市民として参加する際、われわれは同じような制限に従うべきだ。最高裁判事のように、われわれもみずからの道徳的・宗教的信念を排除し、すべての市民が無理なく受け入れられそうな主張をするにとどめるべきだ。(319‐321P)


公正な社会には強いコミュニティ意識が求められるとすれば、全体への配慮、共通善への献身を市民のうちに育てる方法を見つけなければならない。公共の生における市民の姿勢と性向、いわゆる「心の習慣」に無頓着ではいけない。善良な生活という純粋に私事化した概念によらず市民道徳を育てる方法を見つけなければいけない。
そういう教育は、青少年が異なった経済的階級、宗教的背景、民族コミュニティから同じ教育機関に集まったときに生まれる。
貧困層を助けるために富裕層に税を課すべきだとする哲学者たちは、効用の名の下に持論を展開する。富者から100ドルを徴収して貧者に与えても、富者の幸福はごくわずかしか減らないが、貧者の幸福は大きく増すと、彼らは推測する。ジョン・ロールズも再分配を擁護するが、彼が根拠とするのは仮説的合意だ。平等な原初状態での仮説的社会契約を想像すれば、誰もが何らかの形の再分配を支持する原理に同意するはずだ、と彼は主張する。
だが、アメリカ人の生活に広まる不平等を懸念する理由には、より重要なものがもう一つある。貧者の差があまりに大きいと民主的な市民生活が必要とする連帯が損なわれるという理由だ。不平等が深刻化するにつれて、富者と貧者の生活はいよいよかけ離れていく。富者はわが子を私立学校に入れ、残された公立学校には、ほかに選択肢のない家庭の子供が通う。同様の傾向によって、恵まれた人びとは公立の教育機関や施設から離れていく。民間のスポーツクラブが自治体のレクリエーション施設とプールにとって代わる。高級住宅地のコミュニティは民間の警備員を雇い、公共の警察による庇護にあまり頼らなくなる。二代目や三代目の自家用車によって、公共交通に依存する必要性がなくなる。という具合だ。富裕層は公共の場所やサービスを離れ、それらはほかのものには手が出ない人びとに残される 。
その結果、二つの悪影響が出る。一つは財政的、もう一つは公民的な悪影響だ。まず、公共サービスの質が低下する。そうしたサービスを利用しなくなった人々が、自分たちの税金で支える気をなくすからだ。次に、学校、公園、児童公園、コミュニティセンターといった公共の施設が、多種多様な職業の市民が出会う場でなくなる。人々が集い、市民道徳を学校で学ぶ場だった施設が数を減らし、まばらになる。公共の領域の空洞化により、民主的な市民生活のよりどころである連帯とコミュニティ意識を育てるのが難しくなる。
公共の領域の衰退が問題だとすれば、解決策は何だろう?共通善に基づく政治が主要な目標とするものの一つは、公民的生活基盤の再構築だ。個人消費の可能性を広げるための再分配に焦点を当てるのではなく、公共の施設とサービスを再建するために富裕層に課税する。そうすれば、富者も貧者も同じようにそうした施設やサービスを利用したがるはずだ。
富者も貧者も同じように子供を通わせたくなる公立学校、富裕層の通勤者にとっても魅力的な信頼性のある交通手段、公立の病院、運動場、公園、レクリエーション・センターを、民主的市民生活を共有する共通の場に引き寄せることができるような基盤である。(339‐342P)