3.22.2010

ベトナム戦争(中公新書)

アフガン攻撃からイラク戦争(07年会計年度まで)の累積戦費7119億ドルは、ベトナム戦争での戦費(現在価格換算)5700億ドルを上回った。イラク戦争に関しては、ブッシュ大統領自身が「間違った情報に基づく戦争」であったとの認識(05年12月)があり、米上院特別委員会が「サダム政権とアルカイダは無関係」と報告(06年9月)した。イラク戦争開始後のイラク人の死者は最低でも10万人、最大で18万人と言われている。テロリスト(敵対者)を追い詰める戦争がテロリスト(敵対者)を増殖させる戦争となってしまった。これはベトナム戦争と同じ構図である。


歴史は塗り替えられる。今、私たちが信じているものも、誰が絶対的なものだと言えるだろうか。
情報はコントロールされる。私たちがこの目で見たもの以上に信じるものはない。


高校までの授業でベトナムに関して、中国や欧米に比べると、ほとんど教わっていない。教科書にもっと載せても良いのではと思う。

ベトナム戦争はこういう戦いだった(「ベトナム戦争(松岡完著、中公新書著)」)。

①1964年8月初め、トンキン湾上の米駆逐艦が、北ベトナム魚雷艇から二度にわたって攻撃を受けた。米駆逐艦は公海上で通常の哨戒任務中だったとされたが、当時アメリカは3マイル、北ベトナムは12マイルの領海を主張していた。少なくとも武力衝突の可能性を軽視した無分別な挑発だった。しかも、事件の伏線を敷いたのはアメリカだった。ゲリラ戦争に終わりが見えず、サイゴン政権の前途も絶望的。手っ取り早い勝利には、一気に戦争を拡大するしかない。その口実を求め、ハノイ挑発に余念がない。それがトンキン湾の海面に映し出された、アメリカの本当の姿だった。米議会はトンキン湾決議をかける、事実上戦争遂行の白紙委任状を大統領に与える。米国民は愛国心を刺激され、大統領支持率は四割そこそこから一気に72%まで上昇した。1970年、米議会はトンキン湾決議を撤回した。

北ベトナム軍兵士1人を殺すのに300発の爆弾が必要で、その経費は14万ドルに達した。1か月のベトナム戦費で、米国内の貧困撲滅や社会保障充実をめざすジョンソン大統領の偉大な社会政策の1年分がゆうにまかなえた。

③北爆は、数限りない天災や外敵、つまり中国歴代王朝の侵攻に直面し、一致団結してきたトンキン人の一体感と抗戦意欲を刺激した。1960年代の北ベトナムは、戦時体制下での社会主義建設に邁進した。北ベトナムに降り注いだ250万トンもの爆弾は、その手助けをしていたようなものだった。

④米軍将兵は四六時中「ベトコン症候群」と彼らが呼ぶものの恐怖にさいなまれていた。敵と味方、前線と銃後の区別はなく、基地内で働く労働者の中にもベトコンが潜んでいた。彼らはストレス発散のため、また恐怖心から無差別攻撃、略奪、暴行、拷問、虐殺にのめり込んだ。それがベトナムの農民の反感をますます強めさせ、また米兵の心とからだをさらに蝕んでいった。隊内の秩序は乱れ、警戒を怠って奇襲の餌食になる例も増えた。規律違反や出勤拒否は日常茶飯事となった。1967~71年、1か月以上無断で離隊した脱走者はのべ35万人以上。

⑤1965年1月、いわゆる南爆が始まった。1966年には、南爆は北爆の3倍もの規模で行われている。南爆は敵兵1人を殺すために民間人4人を犠牲にしていた。南ベトナムには共産主義を嫌う人々は多かったが、といって田畑や家屋を破壊し、自分たちを苦しめるアメリカ人や、その手先も同然の南ベトナム政府を好きになれる道理はなかった。

⑥南ベトナム軍兵士の給与はサイゴンのタクシー運転手の半分にも満たず、戦死しても恩給も出ない以上、命を的にしての突進など酔狂以外の何物でもなかった。1966年には5人に1人が舞台から消えた。

⑦ベトナム戦争が本格化すると、多くの物質が日本国内の40近い港から搬出された。ナパーム弾の90%は日本製で、部品の状態でベトナムに送られた。ベトナム特需は1965~72年で直接間接、対米輸出も含めて70億ドルほどになるという。輸出総額に占める割合はせいぜい7~8%で、輸出の6割以上に達した朝鮮特需ほどではなかった。しかし東京オリンピック後の不況にあえぐ日本経済の息を吹き返させ、高度成長時代への道を開いた。